「面白いもの」が怖いという生き方

面白い漫画を読むことができない。正確には、漫画に限らず小説、アニメ、映画、動画含め、面白い作品というものが見れない。YouTubeで、AmazonPrimeで、面白そうだなと思う作品を見つけても、再生ボタンを押すのをためらってしまう。見てみたいけど見るのが怖い板挟み。いつでも×ボタンを押すつもりの引け腰の心で、恐る恐る試し見る。その作品が面白そうかを確認するために。そして、その作品が「面白すぎないか」を確認するために。

 

「見れない」のでなく「見ないことを選んでいる」。自分が「こんな作品作ってみたかった」と思うものを見ると、悔しさで打ち砕かれてしまうから。その写し鏡で、自分の耐えがたい何もなさを痛感してしまうから。

最たる例が『推しの子』。間違いなく、ここ数年で最も打ち砕かれた作品。ほかにはチェンソーマン、俺ガイルあたりもそう。でも推しの子は特に、アマプラで1話目を見て、完全に粉砕された。「面白すぎる」としか言いようがないからこその、無邪気な金槌で殴られたような感覚。衝撃と、そして痛み。

(なんだよこれ。自分と同じ人間が作ったのか?どういう頭をしてたら作れるんだ?このアホみたいな差は何なんだ?こんなことのできる人がいるなら、自分は何のために存在してるんだ?)

頭が感情で圧倒されて何も見たくなくて目を開けるのも苦しくて、はちきれそうな頭をおさえてうずくまって、1日何も手につかなかった。こんなに面白いなんて知ってたら、きっと見なかった。見なきゃよかった。責任転嫁したいわけではなく、ただ、すごさを受け入れられない。とても2話目を見る勇気は出なかった。アマプラのトップ画面でサムネイルが目に入るのも苦痛で、視線を外すようにしながらアニメを探すようになった。つまらなくもない、かといって面白すぎない、傷つかずに済む程度の面白さが一番都合いいと思いながら。

 

分かっている。「自分がそうしたくて選んでるんでしょ?ならそれでいいじゃん」というだけの話だってこと。自分でもそう思う。未踏の大陸に上陸するのは怖いから、近所のいつもと違う道を歩くくらいに留めてる。自分の世界を狭めても、自分のプライドを守るために。こうして書きだすとやっぱりしょぼいなあと思うけど、事実だから仕方ない。

知り合いにこのことを話したら「それは同じ土俵に立っているからそう思うのでは」と言われた。(たぶん気を遣ってこういう言い方をしてくれた)

自分でも不思議だ。人は明らかに自分が敵わないと思う相手には悔しさなんて感じないはずじゃないのか。いまだに自分を過大評価してるのか?自分でも漫画を描こうとして、実際に何作か描いて、諦めがつくほど限界を感じたはずなのに。小説は1作も書くことすらできなかったのに。土俵に立とうとしたけど立てなかったことを確かめたはずなのに。敵わなくて叶わないと身に刻まれたはずなのに。Xで好きな作家さんなりをフォローして、彼らのツイートを見れる人たちを、すごいなと思う。悔しさを感じずに見れるのか?感じても見れるのか?そんなに自分を確立できているのか?見ても、自分の価値を疑わずにいられるのか?

 

「不便そうですね」。

これも同じ知り合いから言われた言葉。確かにそう思う。不便さと引き換えに、傷つかないことを選ぶ生き方。最近世界をますます狭めた結果、見れるものが減りすぎて動けなくなっている(YouTubeの一覧画面で見たいものがあっても、見る勇気が出ず、ずっとスクロールしてばかりで終わる)。かといって、やっぱりすぐには遠い場所まで踏み出せる気もしない。

 

でも、人に誇れるものではなくても、それが今の自分を保つための生存戦略。かの名作『進撃の巨人』で、人類は巨人から身を守るために壁を築く。そこでの生活は鳥かごの中の暮らしだったかもしれないけど、壁の中で積み上げた研鑽と準備は、壁の外に踏み出した際に助けになったんじゃないか。「保守的」という言葉はあまりいい意味では使われないし、実際それで経験のチャンスを失うんだろうけど、「保ち」「守る」ことにも意味はあるんじゃないか。いや、意味を持たせられるような過ごし方をしたいと、今この文章を書きながら思う。

築いた壁の中で、もっと自分を誇れるものを確立しよう。他者比較の濁流に流されない重い幹を、深い根を張ろう。巨人に踏みつぶされても、しがみついて、巨人の肩に乗れるようになるまで。他人を認められるくらい、自分が認められるような自分になるのだ。