利己心の限度はどこにある(『夏目漱石 こころ』)

人物評

先生

「人間らしさ」の体現者にして犠牲者。「俺は策略で勝っても人間としては負けたのだ」と自らの行いを恥じたが、それは先生のほうが精神的に複雑だった(人間らしかった)がゆえに起きたこと。やり方は灰色だったがお嬢さんへの愛情は後年にわたって純白を貫いており、某乙骨くんに並んで「純愛だよ」と言われたらとても反論できない凄みがある。

能ある鷹に見せかけた飼い羊。書物で得た他人の思想をそのまま自分の思想とし一躍座学界のホープに躍り出た、学問徒の末路。教義と矛盾する感情が自分の中で強まり急にうろたえる脆さはかわいい。まさにこれから現実の自分の輪郭を知っていく、思春期の中二病ロード真っ只中。ぴんと突っ張った糸のように純粋でまっすぐだが、束ではないので細くて弱い。

 

感想

もし自分が先生の立場だったら

「精神的に向上心のない者は馬鹿だ」と先生がKに言った場面。自分でも、本心からKに優しい言葉や応援の言葉はかけられないと思う。利のためプライドのために攻撃性を出して後悔した経験もあるけど、いざとなれば先生みたいに強く出てしまえるかもしれない。その場合たしかに、相手が自分より強いと思ってたらそうはしなくて、攻撃できると思った相手に攻撃すると思う。だから先生がKを「ただ一打で彼を倒すことが出来る」と思った場面の心理描写がとても好き。あまりに本質的であまりに気持ちが分かるから。「うわあ、まあそう思っちゃうよなあ」という納得感がすごかった。結局どれだけ社会性や知性をつけても利己心を通すために闘う野生の本能が人の根幹なんだなと。

利己心の限度としての罪悪感

絶対的な善悪はないのに、精神的な罪の意識や良心の呵責、なぜ何に対して感じる?なぜあんなに苦しい?そもそも感じる必要ある?利己的な行動はどこまでいくと良心の呵責苛まれる?

罪悪感・後ろめたさを抱きながら過ごすのは苦しい。一線を越えてしまったと気づいた瞬間から心臓の鼓動とともに押し寄せる、胸が真空になるような息詰まる苦しみ。普段なら楽しめることも楽しめなくなって、何も手につかなくなる精神の地獄。そして考えるまでもなく悟る。自分は自分がいけないと思うことをしたんだと。この痛みが教えるものは真実で、そのまま放置して過ごしてくことはできないと。だから、傷つけてしまった相手から許されないとしても、自分を少しでも許せるよう反省して懺悔の行動をする。「常に苦しい」から「思い出すと苦しい」までなんとか持っていく。自分は、そうやって生きてきた。

でも先生の場合は、その思い出す頻度が日常茶飯事的(先生は奥さんと毎日顔を合わせて暮らしてる)で、かつ強いものだったのだと思う。そして、その苦しみを誰にも打ち明けられないから、懺悔して許されることができない。これも本当にきついことだと思う。仕事の悩みでもなんでも一人で抱え込むことは、喉元に上がってくる不安の濁流を何度も飲み込んで、独り闘い続けることだから。先生がKの死因を淋しさだったのではと思い恐ろしくなるのは、すごく分かる気がした。自分も会社を辞めてニートになった後一人で過ごしてた時期があったけど、本当に孤独感で正気を保てなくなると思った。

まとめ

利己心は本能。罪悪感という概念は、孤立孤独への恐れによって利己心を制御する心理装置。これは法律・ルールを破ったかどうかの問題ではない。法に反してるわけでないけど感じることもあるから。(先生の場合も後者)

何を苦しく感じるかというと、他者との関係が壊れて一人ぼっちになる恐怖。とくにそれが自分の大事な相手であるほど強く感じる。赤ちゃんとして生まれて親から世話される経験などを経る中で、自分を愛してくれる存在、仲間といることは、生存を有利にする、もしく生存のために必要という認識が刻まれる。そして実際、人は一人では生きていけない。だから、大事な他者を傷つけることに対して、それは孤独孤立を招いて自分の生存を脅かすリスクという認識が刻まれる。それがセンサーとなって心に痛みを発する。先生にとってKも大事な存在だったから、傷つけてしまったことにおさら強い苦しさを感じることになった。それでも最後、語り手である私(神?)に懺悔の告白をした先生が、少しは気持ち的に救われたんじゃないかと思いたい。