「少年ジャンプ連載陣が全員AI」の未来がきたら

「週刊少年チャンプのAI作家専門誌『AIチャンプ』、本誌の3倍の購読数に到達」。

・・・なんて未来は極端だろうか。もしもAIが商業創作をして人類の創作は趣味になる未来がきたら・・?。それこそ極端すぎると思いつつ、でもそれはそれで成り立つのかなとも思う。AIが人間より短時間で同等に面白い作品を作れるなら、それは人間にとって何を意味するのか。

背景的な感情

つまり、もし週刊少年チャンプより早くて安くて内容も面白いAIチャンプがあったとしたらどうだろう。もちろん良い点、懸念点両方出てくると思う。

たとえば早さについて。人智を超えた最強AIが登場したら、週刊どころか日刊、分刊、秒刊も可能かもしれない。しかしそこまでいくと食傷気味になりそうだし、「早く来週来ないかなあ」と待つ楽しみも失われる。結局なんだかんだ週刊に落ち着きそう。

また仮にAI誌のほうが安くて面白くても、僕は人の作った作品も見たいと思う。それはたぶん将棋と同じ概念だ。つまり、人がどこまでやれるか然り、「人だから」得られる価値があると思っている。

たとえば、この人のようになりたいと思うこと。

好きなVTuberさんがいるのだが、彼女は他愛のない雑談でもゲーム実況でも、なんて楽しそうなんだってくらい楽しんでいる。そういう明るさに触れると気持ちが上がるだけでなく、「こんな風に生きてる人がいるんだよなあ。自分も見習いたい」と思う。

僕にとっては、そうした背景的な感情も含めて意味・意義なのだ。もし彼や彼女がAIなら、自分は人間のときほど強い感情にはならない気がする。

(なんだか人とAIのどちらが優れてる劣ってるみたいな書き方になってしまったが、あくまで人の特性を考えたいという試みのつもりだった。)

2つの天才

最後に「面白さ」の点でいえば、AIの強みが人間に思いもよらないアイデア同士の結び付けを高速試行できることなら、人の強みは「時間をかけて積み上げたからこそ出せるもの」だと思う。

『葬送のフリーレン』のリュグナーというキャラのセリフで、「天才は嫌いだ。積み重ねたものの美しさがない」と言う言葉があるが、AIはある意味リュグナーのいう天才であり、人間は積み重ねるほうの天才にあたるのではないか。(これもAIがずるいと言いたいわけでなく、特性の違いとして。)

読む側も作品を通じて、その積み重ねた美しさを意識的にあるいは無意識に感じてるんじゃないか。(作品自体の面白さとして、付随してその背後にいる作者への想像として)

そうであるならば、AIが商業創作をして人類の創作は趣味になる未来がきても、どちらも必要とされ続けるんだと思う。(作る側は、言わずもがな自分の手で作る意味を必要とし続ける)